筋ジストロフィーの息子と共に生きる父のブログ 2021春 第3話
無事に退院できた。肺の事を気にしながらの毎日だったけど、いつも通りの日常になりつつあった。
気胸の病み上がりという事でNPPVの設定は優しい設定に変更されていた。
日中起きている時にも 3時間程度 リハビリも兼ねて使用するように指導された。
夜のNPPVの設定も1パターン増えた。
昼間とは違うリズムで呼吸を促す。
深い眠りにつくとどうしてもspo2が低下する事があったからだ。
排痰補助のカフアシストは 1日1回程度なら排痰が難しい時に使用してもいいとの事。
ちょうど春休み期間に気胸で入院していたふー君。
大学の単位等にも影響はなかった。
退院してから ゆっくりリハビリを行いながら、大学生活もオンライン授業が始まっていた。
退院してから10日ぐらい過ぎた夜。
ふー君の好きなお好み焼きを食べていた。
慌てて食べる事はなかったけど ゆっくりご飯を食べていたふー君。
細かい何かが詰まった感覚。
軽くケホケホと咳払いをして出そうとしていた。
それに気づいたママちゃんが胸や背中をさすったり揺らしたりしていた。
しばらく経ってもスッキリしなかったので
1度ならOKのカフアシストを使用する。
機器のリズムに合わせて
吸って吸って吐いて~
で1回を、3回繰り返す。これで1セットだ。
結果はあまりスッキリしなかった。
入りどころが悪かったのか 上手く行かなかった。
こういう時は 何度かあったけど カフアシストでいつもなんとかなっていた。
気胸をした事でカフアシストの設定も弱めになっていたのが、原因かもしれない。
と言っても 強いとまた肺に穴が開いてしまうので それでいい。
結局その日は そのまま さすったりしていた。
「病院行こうか?」
と声を掛けたけど、大丈夫だそうな。
そこまでじゃないと返事があった。
次の日の土曜日 午前中はいつものクリニックが診療しているので 受診する。
診察してもらい、まぁ軽い風邪だろうと言うことで風邪薬などを処方してもらって帰ってきた。
もらった薬を飲んで安静にしてたけど、軽く咳は続いていたし、背中の痛みもあった。
まぁそんなにすぐ効くわけでもないだろうと様子見。
1日の事を済ませ、ベッドに乗せて話してた。
「まだ少し元気ないなぁ、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫だけど、レントゲンは撮って欲しいねんなぁ」
と言っていたふー君。
気胸の事を気にしていたようだ。また穴が開いてたら 嫌だなぁと思っていたらしい。
レントゲンを撮るなら 近くのクリニックでは無く 医療センターじゃないと ふー君は撮れないのだ。
週末に入るから行くなら行っておこうと言ったけど 大丈夫らしい。
少し落ち着いた様子で寝ることにした。
いつものように ふー君の介助をして みんな眠りについた。
次の日の朝、いつも通りふー君を起こし いつも通りの生活が始まる。
ふと ふー君が一言
「なんか背中が痛い」
どうしたんだろう寝る姿勢が悪かったのかと 普通に話しながら過ごしていた。
呼吸もあまりスッキリしない様子。
お好み焼きがまだ残ってるのかなぁ。
夜になっても変わらなかった。
我慢強いふー君、見てる分には いつもと変わらなく見えていた。
また次の日 日曜日。
少し背中が痛むみたいだけど、昨日よりはマシになったらしい。
少し元気ないようにも見えるけど 気のせいかな?
コロナ禍でお出かけする用事もなかったので、リハビリも兼ねて任天堂Switchで おうちカラオケをしたりして過ごした。
月曜日の朝、Daddyが出勤する時も 少し元気が無かったふー君。
その少し後にパートに向かうママちゃんは
「大丈夫?医療センター行こうか?」
と声を掛けていた。医療センターに行くのはクリニックの紹介状がいる。
飛び込みで受診できるか 問い合わせてみたけど、まだ時間外だったらしい。
仕事に出る時間になってしまい、ふー君も
「大丈夫、そこまでじゃないから」
と言われパートに出たようだ。
それからしばらくして 平日お願いしているヘルパーさんが来てくれていた。
その頃には 痰がゴロゴロと胸の中で鳴っていたそうだ。
その中で医療センターの受付時間になったので電話して受診したいと伝えるふー君。
「紹介状がないと診察できません。かかりつけ医の紹介状を持ってきてください」
と言われてしまった。
そしてまた痰が絡み出す。
その頃には相当苦しかったそうだ。
そして少し 楽になった時を見計らってクリニックに電話。
めっちゃ頑張ったな!ふー君
ゼェゼェ言いながら事情を説明するふー君。
クリニックの人が
「紹介状取りに来れますか?」
と聞かれ、やりとりを聞いていたヘルパーさんが
「医療センターにFAXしてもらおう!」
「大至急!お願いします!」
と咄嗟の判断,ヘルパーさんありがとう!
そして、電話を切り医療センターに出掛ける準備を急いで始める。
その頃のふー君はもう限界だった。
さすがに体力の限界で出掛けるのは無理になっていた。
最後の頼みの綱
訪問看護ステーションに電話したのだった。